建学の精神?大学の理念
建学の精神
創設者嘉数昇の建学の想い
1902年(明治35年)、嘉数昇は那覇の国場に「百姓の子として」生まれました。少年期、県立一中(現在の首里高校)への進学を志して、昼間の野良仕事にもめげずに薄暗いランプの下で黙々と勉学に励みましたが、百姓には学問はいらないという当時の農村社会の風潮のなかで進学の夢をかなえることができませんでした。
青年期は一家の家計を支えながら独学を続け、県立農業試験場に職を得ましたが、「学歴の壁がついてまわる役所仕事に見切りをつけて」民間の仕事に転じました。嘉数はその頃の苦労を振り返り「私は、世の中は実力の社会だ、と心得ているが、官尊民卑、学歴万能の支配する日本の社会で、人に伍して行くのは並大抵の努力ではできない業だったのである。この体験の中から、私は、自分のなめた苦しい思いを、二度と、沖縄の若い世代に味あわせたくない、と決意した。」と述懐しています。
嘉数は40歳で県会議員となり、戦後は保険事業などを立ち上げ実業家の手腕を発揮します。しかし、戦後10年を過ぎた米軍統治下の沖縄の状況に目を転じると、「戦勝意識をプーンと鼻を突くほどに匂わせて、どっと街に繰り出した米兵とフィリピン労働者の眉をひそめる風態をマネした青少年が、まるで魂を失ったように〝無目的?に生きている光景」であったといいます。「彼らは一体、何故そうなるのだろう」と煩悶する嘉数の脳裏には、戦争と異民族支配のもたらした精神的混乱と虚脱の暗い影が落ちる郷土をなんとしても立ち直らせたいという思いが刻まれていきます。
当時はまだまだ学校教育の場が少なく、中卒者の進学できる高校への門は狭く限定されていました。嘉数は一念発起し、自ら私立高校の設立を決意します。人生の一つの締めくくりとして、学校を創るという仕事を実現したいと考えました。
「今をおいて、自分の30年来の持論である『教育の機会均等』を実現しなければ、またいつの日にか何をなさんと意を決し、その日あるを期して蓄えてきた私財を投じて、1956年11月26日、『財団法人嘉数学園』を設立し、直ちに同法人による『沖縄高等学校』を設立した。その後、社会からの、特に青年層からの『大学設置を要望する声』に接した私は、1958年8月8日、既設の沖縄高校の経営体験と教訓、精神的物質的基盤の上に、『沖縄短期大学』を設置することができた。時代の動きは、四年制課程の大学の開設を要請し、それに応えて所轄庁の認可を受け『沖縄短期大学』を、1961年4月『四年制沖縄大学』へ昇格させた。ここに戦前戦後を通じて、沖縄に最初の私立の最高学府が誕生したのであった。」と嘉数は回顧しています。
嘉数は琉球政府中央教育委員会に財団法人嘉数学園設立認可を申請した際、認可申請の理由を「教育の基本的理念である教育の機会均等を具現し、沖縄教育界に貢献致したい」と記しています。そして、私学創設の想いを次のように吐露しているのです。
「世に、向学の志に燃えながら、家が貧乏であったり、または色々な事情でその機会に恵まれず、そのため世の荒波にもまれ、悪戦苦闘している青年男女はきわめて多い。私はそのような不遇な青少年に心からの深い同情と親近感をおぼえる。そして、そんな逆境にも挫けず、たゆまず大志を貫徹しようと、前進する青年男女の真摯な健闘に、私の力のある限りの激励と援助をしたいと思う。この気持ちが、私が自ら私学を創ったことの最大の眼目である。」
嘉数昇略歴
1902年 那覇市国場に生まれる
1922年 真和志村農業技手
1942年 沖縄県会議員
1945年 日本生命鹿児島支部長、大分支部長
1945年 琉球生命保険株式会社設立
1956年 財団法人嘉数学園設立
1974年 逝去(享年72歳)
参考:嘉数昇著『沖縄の私学と振興』(1967年)
学校法人沖縄大学寄附行為
(1956年11月 琉球政府中央教育委員会認可)
第3条 この法人は、教育基本法、学校教育法に従い、大学学術専門教育を授けるとともに、正義と平和を愛し、民主社会において、これを適応しうる有能なる人材を養成することを目的とする。

大学の理念
沖縄大学憲章「地域共創?未来共創の大学へ」
沖縄大学は、創立50周年を機に、「地域共創?未来共創の大学へ」を新たな大学の理念として