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SPECIAL INTERVIEWS

嘉数真理子さん

小児血液腫瘍科専門医 / ジャパンハートこども医療センター小児科部長

嘉数真理子 さん (小児血液腫瘍科専門医 / ジャパンハートこども医療センター小児科部長)
17歳へ。

行動することで人生が変わる。
自分の人生は自分が決める。

那覇市出身。沖縄尚学高校を卒業後、琉球大学医学部へ進学。沖縄県立中部病院、静岡県立こども病院、沖縄県立南部医療センター?こども医療センター勤務を経て2017年ジャパンハート長期ボランティア医師としてカンボジア赴任、現在ジャパンハート小児医療センター小児科部長として活動中。2021年外界志向でチャレンジ精神を持った研究や活動に取り組む沖縄県出身者に贈る「ロッキーチャレンジ賞」受賞。

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    医師を目指したきっかけについておしえてください

    4人兄弟の3番目で、那覇で育ちました。中学2年生のときに、父ががんで余命3ヶ月との診断をされ、そのまま亡くなったことに大きな衝撃を受けました。当時漫画の「ブラックジャック」が流行っていて、あんな医師がいたら父の病気も治ったのではないかと考えたりもしました。でも、現実にはいない。それなら、どんな病気も治せる医師になりたいと思い、医学部への進学を志しました。
    高校時代は受験勉強に明け暮れましたが、友達にも恵まれ、充実した時間を過ごし、無事医学部に入学することができました。

  • 8

    どんな大学時代でしたか?

    家庭教師のバイトでお金を貯めて、時間があればアジアの国をあちこち回っていました。おかげで途中留年もしました(笑)。
    大学の病院実習では、5歳の脳腫瘍の男の子を担当しました。治療の甲斐なく1年後に亡くなってしまいましたが、ずっとその子に寄り添って家族を支えていたのは小児科の医師や看護師の皆さんでした。その出会いから私も子どもたちの病気を治す医師になりたいと思うようになり、小児がん治療の専門医になろうと決めました。卒業後の研修は県内でも厳しいことで知られる中部病院でした。いつもどちらかというと、少しキツイ方を選択するようにしています(笑)。

  • 8

    もともと海外に行きたいと考えていたのですが?

    高校時代はあまり考えていませんでした。海外には興味があったので県費留学の試験も受けてみましたが、落ちてしまいました。そのおかげでかえって受験勉強に集中できたかもしれません。
    研修医時代は、まだ沖縄でも受けられない治療やできない手術などもあったので県外との医療ギャップを埋めたいと考えていましたが、県立のこども医療センターもでき、2010年頃からだいぶ改善されてきました。沖縄県でも小児がんの患者さんは年間30人くらいいます 。小児がんは直る可能性が高く、日本では8割は助かる病気です。ところが、静岡での病院時代、途上国では2割しか助からないということを聞き、衝撃を受けました。「助かるはずの命を助かるはずだった命にしたくない」と強く思いました。

    学生時代にラオスで公衆衛生のフィールドワークに参加した経験もあり、いつか海外で医療に取り組みたいという想いはどこかでずっと持ち続けていました。

  • 8

    なぜ世界に挑戦することを決めたのですか?

    海外に行くか沖縄に残るか、迷っていました。キャリアプランのひとつとして準備はしていましたが、30代後半で、決して早い決断ではありません。たまたまお会いする機会があった立命館アジア太平洋大学の出口治明学長に「あなたが挑戦して、失敗してもリスクはそんなにないですよね」と言われて、その通りだなと。医師免許があって、手に職のある仕事なのだから、ダメならまた戻ればいい。今挑戦しないと死ぬときにきっと後悔する。そう思って、決断し、県立病院を退職しました。英語はあまり得意ではありませんでしたが、カンボジアに行く前の2年間、スカイプ英語で学び直しました。赴任前には念願だった世界一周旅行にも出かけました。
    ボランティアは「誰かのため」ではなく「自分のため」。だから自分のやりたいことができる、好きで得意なことができるというのがやりがいです。カンボジアでは子どもの治療を求めて本当に遠くから家族がやってこられます。患者さんが病気を治して笑顔で家族のもとに戻っていくのをみることが自分の原動力になっています。

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    カンボジアでのお仕事について教えてください

    2017年にカンボジアに赴任、2018年には特定非営利活動法人ジャパンハートが運営する病院に小児病棟をオープンさせました。診察料は無料です。
    カンボジアでは1970年代後半にポルポト派による大量虐殺が行われ、極端な原始共産主義から多くの知識人が殺されました。そのため、医療従事者が極度に不足して医療が遅れ、短期間で医者を育成した結果、医療への信頼が低くなり、病院に行かずに民間療法に頼る人々が多くなるという悪循環におちいってしまいました。
    そのため、自分にとって大きな役割のひとつは現地の医療スタッフを育てること。チームで治療にあたりながら、スタッフの成長を見守っています。
    当初は小児がんの生存率は約2割でしたが、現在は5割まであげることができています。ただ、助けられなかった命も多くあります。でも、最後まで可能な限り、治療をつくすことは、患者さんだけでなく家族の想いや心を救うことにつながっていると感じています。

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    壁にぶつかったことはありますか?

    壁にぶつかってばかりです。停電は毎日ありますし、医療物品も足りない。人間関係で悩むことも多いです。でも失敗上等と思っています(笑)。失敗をくり返しながら学んでいけるので。
    気持ちを切り替えることの重要性も学びました。日本の病院にいたときは、重症の患者さんがいると24時間考えてしまい、ストイックに働きがちだったのですが、カンボジアに行き、人にも自分にも寛容になりました。今は休む時はしっかり休みます。
    カンボジア人は自分の時間、生活、家族を大切にしています。日本では患者さんの医療の先の生活を想像することはほとんどありませんでした。でも、カンボジアに来て、生活や人生とのかかわりの中に医療があることを実感できるようになったことが自分の成長だと思っています。

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    今後のおしごとの展望を教えてください

    2025年にはプノンペン郊外に新しい200床の病院が完成します。カンボジア以外の周辺国の子どもたちも助けられるような医療拠点を確立できたらと考えています。後輩となる医師の育成も着実に実を結んできていて、沖縄から遠隔でも支援できる段階まできており、今年からは月に一度は沖縄に戻り、次のステージに向けて準備を整えている状況です。医療を窓口としつつ、子どもの貧困や若年女性の問題等、医療だけでなく生活の根底を支える活動ができないかと考えています。さまざまな人の人生に関わり、改善できる仕組みづくりが目標です。
    人生を楽しみながら、子どもの貧困をなくし、多様性のあるおもしろい社会をつくりたい。そして人材育成に関わりながら沖縄と世界とつなぐ架け橋になれたらと思っています。

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    沖縄の高校生へのぞむことは何ですか?

    外をみること。沖縄のことをもっと知るためにも、県外や海外に出て外から沖縄に見ることが大事だと思います。自分のアイデンティティを見直す機会にもなり、沖縄の魅力に気づくきっかけになるはずです。学生の間にたくさんの人に出会い、おおいに本を読み、そして日常をはなれて旅に出て、自分の目で新しい世界をみてほしい。
    そして、男女ともしっかり自立していくこと。キャリアを築いて経済的に自立し、自分の人生をコントロールできれば、海外を含めてどんな場所でもやっていけるようになると思います。